<目次>
 1.ムンバイ(このページ)
 2.コチ(コーチン)…マーケット、チャイニーズ・フィッシング・ネット
 3.コチ(コーチン)…バック・ウォーター・ツアー(細い水路)
 4.コチ(コーチン)…ユダヤ人街
 5.バック・ウォーターを手漕ぎボートで
 6.マドゥライ
 7.チェンナイ、マハーバリプラム
 8.マハーバリプラム

*この旅行記は2006年3月にインドを訪れた際のもので、旅行後あまり時間がたたないうちに作成してアップしていたものですが、2022年6月、写真の枚数を増やすとともにサイズを若干大きくしてリニューアルしました。この旅ではコンパクト・デジカメ1台、フィルム・カメラ1台を使って写真を撮りました。デジカメの方は旅に出る直前に固定ピントで撮影することがあったのですが、設定をオートフォーカスに戻すのを忘れたまま撮影したのでよくみると多くの写真のピントが合ってません。また、フィルム・カメラではポジフィルムを使いましたが、鮮やかな発色が特徴のフィルムを使っており、”鮮やかすぎる色”の写真もあります。
 

  ムンバイ(ボンベイ)

<2006年3月5日(1日目)>
午後10時頃、僕はインドはムンバイに到着した。予想に反して、入国手続きはきわめてスムーズに進み、10時半すぎには空港ビルの出口を通った。

空港の出口は出迎えの人たちでごった返していた。旅行会社の担当者からものすごい数の出迎えがあるとは聞いてはいた。しかし、予想を大きく上回る出迎えのすごさに少々圧倒された。個人の出迎えも多いのだが、ホテルへの送迎を担当する人がかなり多く、出口のところにある柵には、ホテルの名前と客の名前を書いたA4サイズくらいの紙だったか、それを貼った同サイズの膨大な数のボードがかかっていた。この光景を目の当たりにする前は、あちこちの空港で目にするような、客の名前を書いた紙を持つ出迎え担当者がいると思っていたのだが、膨大な数のボードを見て、すぐにこの中から自分の名前を書いたものを見つけ出さなければならないのだと了解した。夜遅くの到着になるので、初日のホテルを予約して行ったのだが、ホテル探しの苦労はないものの、自分の名前を書いたボードが見つけられるのか? という不安に襲われた。

端の方から一つ一つボードを見ていくと、一応同じホテルごとにまとまっていることがわかった。すると割と容易に自分の名前は見つけられたが、今度はボードを見つけた後どうするのかがわからない。そこでしばらく様子を見ていると、出迎え場所を取り仕切っているような人(たぶんオフィシャルな人)がいて、客がボードをはずしたり、指差したりして、その人に申し出ているのがわかった。そこで、僕も自分のボードをはずして、オフィシャルな人を思われる人に「ミスター!」と声をかけた。すると、そのボードを受け取って、大声で僕の泊るホテルの出迎え担当者を呼んだ。その担当者は当日出迎えることになっている客の名簿を持っていて、僕の名前をチェックして、携帯で車を出迎え口に誘導してくれた。一見、大混乱の空港ビルの出口だが、意外とシステマティックに動いているのである。

ホテルは空港から割りと近いところにとったのだが、当たり前だが、そこまでの道がすでに「インド」だった。無秩序な車の流れ、そしてクラクション。何となく懐かしい感じ、そしてうるさいのに心が落ち着く感じ。やはり途上国の混沌とした感じが合っているのか、自分には。



<3月6日(2日目)>
翌日にはコーチンへ向けて飛ぶことになっているので、この日はなるべく早くムンバイの中心街に出て、一通りの観光をしたかった。しかし、前日、空港の両替所の長い列に並ぶのがいやで、両替しなかったので、1ルピーも持っていない。一応、4つ星クラスのホテルなのでホテルで両替できるだろうと思っていたのだが、チェックアウトの際、両替をお願いすると「現金がない」というではないか? さすがインドである。やられた。こんなことで感心しても仕方がないのだが。レセプション氏いわく「銀行があく9時半まで待つか、空港に行け」

時刻は8時半、1時間も無駄にはしたくない。そこで、10ドルだけ両替できないものかとたずねてみた。10ドルで430ルピー。レセプションで尋ねると、次に泊る予定のホテルのあるチャーチ・ゲイト駅近くまでのタクシーの料金は300ルピーということなので、取りあえず移動することはできる。移動後にどこかの銀行で両替すればよい。

ホテル側は10ドルならば両替できるという回答。しかし、「その程度のお金で大丈夫?」と心配してくれる。「大丈夫、中心部に出れば簡単に銀行は見つけられるだろうから」と説明するのも面倒なので、「ノープロブレムだ」とだけ答えて、ムンバイ市内に向かった(なお、タクシーの料金はホテルの人が運ちゃんと交渉してくれたが、結局300では折り合いがつかず、350になった)。

空港エリアからムンバイ市街(とはいっても広いのだが)までは、30キロ以上ある。途中渋滞にもまきこまれ、チャーチゲイト駅までは1時間20分を要した。

10時すぎ、駅のすぐそばにある、前もってホテルのホームページから予約しておいたホテルにチェックイン(チェックイン時間は12時という規定だったが、幸い部屋の準備ができていた)。荷物を置いてすぐに街へ出た。



この部屋(エアコン・シャワー・トイレ付き)で1泊約2000ルピー(約6000円)。安くはない。ムンバイでは慢性的なホテル不足で料金も高騰しているという。外に面した部屋ではなく大きな窓がなかったので代えてもらおうかとも思ったが、表の騒音を考えて、この部屋の方がかえっていいだろうという結論に達した。しかし、みかけよりもずっと快適なホテルで、特にスタッフは皆誠実で非常に好感が持てた。



まず、世界遺産にも指定されている石窟寺院のあるエレファンタ島へというのが、出発前のプランだった。ところが、ろくにガイドブックも読まずに計画をねったのがいけなかった。この日は月曜日で、エレファンタ島の石窟寺院は休館なのだ。しかたがないので、この日はイギリス植民地時代の建物でも眺めながら、ムンバイ市内を散歩することにした。

両替できそうな銀行をさがしながら、まず向かったのは、チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス。ターミナスとは終着駅という意味で、現在は主に東南部からの列車の終着駅となっているようだ。この駅舎がなかなか素晴らしい建築で、以前の訪問ではここで列車を降りたにもかかわらず、なぜか写真すらとっていなかったので、是非再訪したかった。



イギリス統治時代の建物。




2階建てのバスも走っていた。後方の建物とこのバスだけが収まったこの画像を見ると、一瞬どこか西洋の街かと思ってしまう(バスのボディをよく見るとヒンディー語だろうか現地の文字も見えるが)。




チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス。世界遺産に登録されている。この駅は、かつてはヴィクトリア・ターミナスと呼ばれていたが、イギリスの植民地統治時代の名称ををインドの言葉に置き換えようという運動によって、現在は、チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス呼ばれている(ボンベイがムンバイとなったのも、この名称変更の動きの一環である)。




チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス。しかし、すごい駅だ。




チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス。




チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅からホテルへ戻る道すがら両替をした。写真は50ルピー紙幣の束(100枚あります)。トーマスクックで、1週間分の食費、観光地の入場料、交通費等々にあてるため150ドル両替したが、ルピーの大部分をこの50ルピー紙幣でくれた。インドの物価はまだ把握していなかったが、これ以上の額の紙幣は使い勝手がよくないのだろう。ちなみに、ルピー紙幣は1、2、5、10、20、100、500とあるようだが、この旅行中、1、2、500ルピーにはお目にかからなかった。1、2、5はほとんどコインにとってかわられ、500は高額すぎて見られなかったということだと思う。



昼食はサモーサーという、インド独特のスナックで済ませた。ポテトコロッケの中味のようなものを小麦粉で作った生地で包んで油で揚げたもので、ベジタリアンとノンベジタリアンの別の厳密なインドでは、サモーサーにもベジとノンベジがある。が、概してベジが多い。基本形は3角形で大きいものは2個も食べれば、それなりに腹がふくらむ。チャーチゲイト駅で買ったサモーサー2個で13.5ルピー也。中は当然カレー味。口に入れた段階ではちょっと辛いかなという感じだが、胃袋に到達するとお腹が熱くなってきた。インドのカレーの辛さは腹に来る辛さだ。

昼食後、インド門の方へ向かった。



インド門近くで撮ったものだろうか?




インド門。英国のジョージ5世夫妻の来印を記念して1911年の建立されたもの)。




インド門の前から石窟寺院のあるエレファンタ島への船が運航されている(あいにくこの日エレファンタ島の石窟寺院は休み)。




インド門とタージ・マハル・ホテル(右の建物)。




タージ・マハル・ホテル。19世紀末にインドの大富豪、ジャムシェドジー・ターターがヨーロッパ人専用のホテルで入館を断られたことをきっかけに作ったというホテル(1903年完成)。一泊3万はくだらない超高級ホテル。












いつ引退してもおかしくはないおんぼろタクシーの洪水、クラクションの嵐、それと西洋建築の織り成す雰囲気が何となく興味深いムンバイの街であった。