サガン鳥栖戦、後、日田・日田彦山線(2017.05)
2017年5月、コンサドーレとサガン鳥栖との試合の観戦のため鳥栖を訪れた。
試合は見せ場を作ることができず0-1の敗戦。 セ

例によって翌日は観光。 そこだけのために九州まで行くのはちょっと。。。という感じだが、コンサドーレとセットならばという場所が九州にはけっこうある。









試合後、久留米に移動して一泊。翌日、九大線で日田に向かった。



日田駅に到着すると、向かい側のホームにはピッカピカの車両が。 「seven star」とかあります。そうかこれが有名な「ななつ星」かということで一枚。あまりにピカピカで、向かいのホームの車両が写り込んでいます。




日田まで行ったのは、古い街並みを見るのが目的。まだ9時くらいだったので、交通量は少なかったものの、けっこう車も通る通りに面しており、趣という点では今一つ。







19世紀前半に咸宜園(かんぎえん)という塾を開き(主に中国の古典教育が行われたとのこと)、3000人を超える門弟が集まったという広瀬淡窓を生み出した広瀬家の旧宅が公開されているが、この写真は、資料館として公開されている旧宅とば別の建物(南家隠宅)。







咸宜園跡(上の写真は秋風庵-1780年代=天明年間築)。淡窓の門人は上に書いた通り3000人を超えるようだが、そんなに多くの人が学んだことが興味深かったので、管理の方にその辺のことを聞いてみました。いっぺんに3000人が学んだわけではなく、多い時は200人を超える塾生がいて、淡窓が咸宜園で指導した塾生の総数が3000人を超えるとのこと。一番多いのは豊後(大分県)からの塾生だそうだが、遠く東北地方からの塾生もいたとのことだ。口コミなのだろうが、かなりの評判の塾だったことがうかがわれる。 武士の塾生はごくわずかで(武士は藩学など学びの機会も多い)、僧侶や町人が多いそうだ。塾に隣接したところに寮があって、多くの塾生はそこに寄宿しており、学費・生活費は自己負担だった。自らの居所から遠く離れた場所で、この時代、そうまでして学ぼうという意欲を持った人が多くいたことは驚きだ。




一つ上の建物にあった咸宜園の教育内容を示したもの。




咸宜園に学んだ者の出身地や有名な人物を記したもの。高野長英とか大村益次郎など有名人の名前が見える。




遠思楼。1849年に淡窓の書斎として建設された建物。明治期に移築されたが、戦後、史跡内のもとの位置に戻された。写真を見てわかる通り、塾の敷地は広いが残っている建物は少ない。




遠思楼から。




秋風庵。




秋風庵。




日田市内。




日田駅の近くで見かけた「プノンペンラーメン」 どんなものか? と興味をそそられましたが、試すことはせず。




日田からは日田彦山線に乗って筑前岩屋へ。この写真は日田駅(だと思う)。




筑前岩屋駅(乗って来た列車を見送ったところだと思う)。




筑前岩屋駅。看板にある通り、湧水で有名。




筑前岩屋まで行った目的はこれ。美しい棚田が見られるのだ。もう少し、綺麗かと期待して行ったが、傾斜がそれほどでもないので、「ワーっ」という感じではなかった。しかし、実は駅から歩いて行った方向と逆の方向にはもっと本格的な棚田があるらしい。予習不足だった。




いかにも棚田という棚田は見られなかったが、駅前の観光地を示した掲示に「めがね橋」とある鉄道橋が見えるところまで行ってみた。筑前岩屋駅の時刻表で日田方面へ向かう列車があることを見ていたので、それを撮影してみた。しかし電線が邪魔です。列車を見送ったあと、さらにその辺を歩いていると、機材を撤去しているベテランの撮り鉄氏が2名ほど。どうやらここは鉄道写真のポイントらしい。







ベテランの撮り鉄氏が撮影していた場所。画面に電線が入りません。




農道沿いに咲いていた花。







上でも述べた通り、このあたりには水が湧いていて、その自動販売機みたいものがあって、ほとんど途切れることがないほど、水を汲みに来る人たちがいた。




湧水があるからか、この自動販売機ではミネラルウォーターは売られていない。



以上で、この日の観光は終了し福岡空港へ向かった。

ところで、この年(2017年)7月に九州北部を襲った豪雨により、日田彦山線やその沿線も甚大な被害を受け、日田彦山線は不通になった。結局、鉄路が復旧されることはなく、線路跡をバス専用道とする「BRTひこぼしライン」(一部一般道を走行)が、2023年夏に営業を開始することになった。

終わり。