京都・特別公開寺院をめぐる(2025.11)
何となく西本願寺の飛雲閣(豊臣秀吉の聚楽第の遺構ともいわれている)のことが気になってネットで検索してみると、特別公開されることを知った。建物の中には入ることはできず写真撮影も不可ということだが、実際に見られる機会はそんなには多くないと思ったので、同じ時期に特別公開される寺院の拝観も合わせるかたちで、11月中旬、1泊2日の日程で京都へ出かけた。

8時55分新千歳発伊丹行きのJAL便は乗客の搭乗完了後、クラスJ席のフットレストが出たままで戻らないという不具合が発生、その整備で1時間くらい遅延(離着陸の際、リクライニングとかフットレストとかテーブルは元の場所に戻すというのが決まりだが、これは非常時に脱出の妨げにならないようにということで、フットレストが元の位置に戻らない状態というのは安全確保上問題があるということ)。



新千歳から大阪伊丹への機中から撮った写真。富山平野、立山連峰、そして遠くに富士山が見える。



12時ころ伊丹に到着。梅田に出て昼食をとった後、大阪駅からJRで京都に移動し、そこから徒歩で西本願寺へ向かった。



西本願寺。手前が御影堂で右奥が阿弥陀堂。



飛雲閣の入口には行列ができているかもと思ったが誰も並んでいない。拝観料(1000円)を払い敷地内に入ると先客はわずか3人。混雑を予想したのでやや拍子抜けだった。教科書などでおなじみの初層が障子だらけの建物が目の前に現れた。写真撮影は禁止だが、飛雲閣の写真はいくらでも見ることが出来るので実物を肉眼で見られるということが重要。



飛雲閣の二層と三層。これは御影堂から撮った写真。




御影堂と阿弥陀堂を結ぶ渡り廊下(奥が阿弥陀堂)。




御影堂。入口渡り廊下の側の入口から撮影。




唐門(伏見城の遺構ともいわれている)。これは西本願寺の境内側から撮った写真だが、塀の向こう側からも見られるようだ。写っている塀の向こう側の道から飛雲閣の裏側も見えそうなのだが、今回は西本願寺を出た後、堀川通を渡った先にあるユニークな建物(本願寺伝道院)につられて思わず東の方向に進んでしまい見落としてしまった。



西本願寺では飛雲閣と合わせて、秀吉が建てた伏見城の遺構といわれる書院も特別公開されていた。こちらも写真撮影は禁止。ただ、拝観料は飛雲閣と同じ1000円だったが、書院の方は見るポイントが多く飛雲閣の割高感を目立たさせることになった。書院の写真も教科書や図説、その他あちこちに写真があるので自分で撮ることはそれほど重要ではないと割り切ることができる。



西本願寺を出る前に飛雲閣を望む。丸い窓の部分が目のようで、何かのキャラクターにでもありそうな雰囲気。




西本願寺を出て堀川通を渡る際に撮った1枚。横断歩道から少し外れる場所で撮るのもちょっとよろしくないが、立ち止まって撮るのはさらによろしくないので、サッとあてずっぽうで撮ったが本願寺伝道院の一部が門(西本願寺総門)の柱にかかってしまった。ちなみに伝道院は生命保険会社の社屋として明治45年(1912)に建築された建物で、銀行や診療所が入るなど曲折を経て現在は僧侶の教育施設の場になっている。



西本願寺を出た後は東へ向かってまっすぐ歩いた。途中、東本願寺にぶつかるので、いったん南進し、さらに東へ向かった。しばらく行くと東本願寺の飛び地境内である渉成園の塀が見えてきた。渉成園は第13代宣如上人が三代将軍 徳川家光から土地を寄進された事に始まる。安政5年(1858)の火事、禁門の変(1864年)の際の火災により園内の建物は灰燼に帰したが、池泉、築山などは園創始のころと変わっていないらしい。前を通ったことはあるが、まだ入ったことがなかったので見物してみることにした。



門を通ってすぐのところに石垣があった。これは飾り壁で、1858年と1864年の火災で建物が焼失した後、園内の瓦礫から集められた大小さまざまな石や瓦などを利用した作られたとのこと。







京都タワーが見える。




けっこう本格的に色づいている木もあった。



渉成園を出た後は、この日のホテルがある四条河原町方面まで歩いて移動。


翌日は特別公開されている大徳寺の塔頭寺院の拝観に向かった。

特別公開の開始時刻も普段から拝観を受け入れている寺院と同様9時からだと思い行ってみると、10時からだったので龍源院(りょうげんいん)を拝観。

龍源院は1502年に創建され、創建当初の建物である方丈・唐門・表門は重要文化財。方丈の周囲には、東に4坪の坪庭「東滴壺(とうてきこ)」、南に白砂の中心に楕円形の苔島を配した「一枝坦(いっしだん)」、北には相阿弥の作庭と伝わる苔庭に三尊石組を配した「龍吟庭」という3つの枯山水庭園がある。



龍源院。木の蔭になっていてわかりにくいが通路の奥に見えるのが唐門。










室町時代に足利将軍家に仕えた作庭家・相阿弥(そうあみ)によって作庭されたと伝わる龍吟庭(りょうぎんてい)。




日本最小の庭園といわれる4坪の坪庭「東滴壺(とうてきこ)」




右の建物は方丈。



10時近くになり、まず、興臨院へ行った。最近、過去の旅写真を整理した際、門のところから撮った写真をみつけ拝観してみたいと思って調べてみると、この秋特別公開されていることを知り行くことにした。

興臨院は16世紀前半に畠山氏によって創建され畠山氏の衰退とともに荒廃したが、1581年に前田利家によって屋根の修復が行われ、以後、畠山家に加え前田家の菩提寺ともなった。本堂(方丈)と唐門は室町期の建築様式の特徴を示し、重要文化財。



興臨院。表門からところから撮った写真。普段は公開されておらず、以前も同じ場所から写真を撮った。




唐門。




「昭和の小堀遠州」とも言われた作庭家、中根金作が復元した方丈庭園(今回の特別公開されている各寺院ではガイド役の方が配置されていて、その方の説明によると、中根金作氏は足立美術館の庭園の作庭を行った作庭家とのこと)。




方丈庭園を正面から。







もう少し紅葉が進むと机に写る紅葉が綺麗かも。




唐門の花頭窓から庭園を眺める。



興臨院はこじんまりとした寺院だったが、庭は好みのものだった。

続いて同じ大徳寺の塔頭寺院である黄梅院へ向かった。ここも以前表門から写真を撮っている。

黄梅院は1562年織田信長が初めて上洛した際に父・信秀の菩提のために小さな庵を建立したことに始まり、本能寺の変によって信長が亡くなった後、羽柴(後の豊臣)秀吉がこれを徐々に増築していき1589年「黄梅院」とした寺院。千利休が作庭したとされる苔庭「直中庭」がある。









千利休の作庭とされる「直中庭」




けっこう紅葉が進んでいた。






黄梅院の敷地はけっこう広く見どころも多いのだが、直前に拝観した興臨院のように方丈とそれに面して庭があるというコンパクトな寺院の方が個人的には好みで、あまり強い印象は残らなかった。

大徳寺ではもう一か所、秀吉が信長の菩提を弔うため建立した総見院という塔頭寺院も特別公開されていたが、見どころであるらしい信長像にあまり興味を持てず拝観せずに大徳寺を後にした。