華厳宗元興寺(塔跡)に行ってきた(2025.05)
<母が訪れた場所を訪ねる旅>
今回の目的地は華厳宗元興寺(塔跡)。亡き母のアルバムに友人との2人旅で訪れた時の写真があり、奈良時代には隆盛を誇った南都七大寺の一つ元興寺の法灯を継ぐ寺院にもかかわらず、観光地化した奈良の寺々とは異なる素朴な雰囲気に魅かれて行ってみようと思ったお寺である。奈良町(ならまち)の中に埋もれるようにして残るこのお寺は、かつて本堂は公開しておらず、境内は自由に歩くことが出来るという、観光化された寺院とは異なる普通のお寺だったようで、母たちは奈良町の散策の途中偶然見つけて門をくぐったのだろう。

しかし、2023年、お寺を管理していた方が転居して門が閉ざされてしまった。それを残念に思った地元の有志の方々らが境内の整備を行い、不定期で拝観を受け入れるようになった。

今春(2025年)この寺を訪れたのだが、その時、門は閉ざされており門前にあった掲示物により、公開情報はSNSで伝えられているということを知った。

自分はSNSはやっていないのだが、幸いヤフーのリアルタイム検索によって、華厳宗元興寺の整備・公開などを行っているボランティア組織の発信を見ることができ、6月に入ったころ検索してみると、紫陽花の開花に合わせて3週にわたって(だったろうか?)土日のみ公開するということを知った。

けっこう直前だし、土日ということで飛行機に空席があるのかという問題があったが、幸い6月20日の新千歳-仙台-伊丹(直行便の株主割引枠は一杯だった)と21日の伊丹-新千歳の株主優待運賃の航空券を確保することができた。

<20日>
16時前、JR奈良駅に到着。久しぶりで東大寺の大仏でも拝観に行こうかということで、奈良駅前からバスに乗車。



東大寺大仏殿。







大仏殿の前にある灯籠。何気なく立っている灯籠だが東大寺創建当初のもので国宝。8面のうち東西南北の4面には観音開きの扉があり、他の4面には音声菩薩が楽器を奏でている。これらの一部は損傷が激しいためレプリカ(どれがレプリカなのかはわかりません)。本物は東大寺ミュージアムで展示されることが多いそう。




大仏殿から中門・回廊方向を望む。




大仏(盧舎那仏)。




東大寺は1180年の平家による南都焼討ち、1567年の松永久秀による兵火により火災にあい、大仏も大きな損傷を受けたので、造像当時のものとは大分変わっているようだが、台座の蓮の花弁部分は火災による熱の影響が少なかったとかで、奈良時代の様子がうかがわれるとのことで、あらためて写真をとってみた。



大仏の斜め後方(東北方向)にある柱の根本に穴があり、自分も小学校小学生のとき初めて訪れた際にくぐり、その後も何度かくぐった。昔はほとんど行列はなかったが、今では東大寺観光の重要アトラクション・記念撮影場所になっているようで、柱の付近には柵のようなもので順路が規制されていて昔とは大違いだった。



<21日>
華厳宗元興寺(塔跡)の公開は10時からなので、だいぶ時間がある。ということで、久しぶりで阿修羅像を初めとする寺宝を拝観しようと思い興福寺国宝館へ向かった。



国宝館の中は当然のことながら写真撮影不可なので、拝観券を載せておきます。




奥の建物は中金堂。手前の礎石は南大門のそれか?




南円堂。




三重塔近くのお地蔵さんたち。




三重塔(国宝)。興福寺に残る最古の建造物で、1143年の建てられたものが1180年に焼失したが、まもなく再建されたと言われている。ちなみに有名な五重塔は15世紀前半の再建だが、2025年現在、修復工事中。



10時少し前、華厳宗元興寺(元興寺塔跡)に到着。

ところで、冒頭から華厳宗元興寺(元興寺塔跡)と書いているが、奈良時代、国家的大寺院として隆盛を誇った元興寺は平安中期以降衰退し、真言律宗元興寺(極楽坊)、華厳宗元興寺(元興寺塔跡)、真言律宗小塔院(小塔院跡)の3つの寺に分かれ、もとの元興寺の法灯を伝えている。このなかで一番有名なのは真言律宗元興寺(極楽坊)で、自分は去年(2024年)、母の写真にあった「元興寺」の額をかかげる門はてっきりこの極楽坊とばかり思って出かけたのだが、門の様子が写真とはまったく異なり別寺院であることを知った。

華厳宗元興寺は元興寺塔跡とも呼ばれるように、かつては五重塔があったのだが、江戸時代末期火災により焼失してしまった。奈良の町で火災が起こり、折から修理中で瓦が外されていたため、火の粉を浴びてあっという間に炎につつまれてしまったとのことだ。この華厳宗元興寺は檀家もなく住職もおらず、不定期の公開の際には東大寺から住職代理(という名称だったか?)がやってくる。(以上、この日、ガイド役のボランティアの方から聞いた話)。

ところで、住職代理は東大寺の僧侶で、お水取りの際、どういう役割だったかまでは聞かなかったが、儀式を執り行う僧侶の一人だったそうで、その際の煤で黒ずんだ白装束(和紙でできている)が本堂に展示されていた。



華厳賞元興寺の門。




門をくぐってすぐのところにあった石仏(お地蔵さんたち)。




灯籠と本堂。




本堂から灯籠を見る。灯籠の向こう、左側の開けた場所に塔の礎石がある




桔梗と何かの建物の礎石。右に01と記された赤い札があるが、これは去年ある研究機関が境内の考古学的調査に入った際に目印として設置したもの。ガイド役の方の説明によると、この礎石に使われている石を分析したところ、元興寺の前身である飛鳥寺(法興寺)から移されたものであることがわかったとのこと。




仏足石。




紫陽花の花。紫陽花の花の色は土壌の酸性・アルカリ性に影響されるらしいが、ここは狭い範囲で土壌の性質が異なるのか?




紫陽花の右にならんでいる礎石はかつてここにたっていた五重塔のもの。




五重塔の礎石。




元興寺と記された碑と五重塔の礎石と紫陽花。






華厳宗元興寺(塔跡)の後のことはノープランだったが、青もみじが見たくなり京都の東福寺へ行くことにした。



臥龍橋から通天橋を望む。




青もみじがよくわかるように撮ってみた。秋にはこれが真っ赤に染まる。




臥龍橋は屋根のある橋で、その柱・欄干などを構図に入れて撮ってみた。



臥龍橋から通天橋とその前に広がる青もみじを見たところで、そろそろ空港に移動しなければならない時刻になり、京阪電車で祇園四条まで移動、そこから阪急河原町駅に移動して大阪伊丹空港に向かった。



阪急京都線特急のPRiVACE(プライベース)なる座席指定車(京都線のすべての特急にこの車両が連結されているわけではない)を十三まで利用、そこから阪急宝塚線で蛍池まで行き、モノレールに乗り換えて伊丹空港に移動した。