トプカプ宮殿
トプカプ宮殿は、15世紀半ばにコンスタンティノープルを陥落させたメフメット2世が着工し、その後歴代のスルタンが増築を繰り返し、19世紀半ばにドルマバフチェ宮殿ができるまでは、オスマン朝の中枢として機能していた。

ここへは、1988年、1994年、1997年、2004年、2008年、2013年の6回訪れていると思う。



(2008年3月) 送迎門。ここから先が有料エリア。この手前に第1内庭があり、宮殿の入口である皇帝の門があるが、なぜか皇帝の門を正面から撮った写真がない。手前の花は杏?




(2004年8月) 送迎門を正面から撮ったもの。




(2008年3月) 送迎門をくぐってすぐのところにあった(と思う)宮殿のミニチュア。右の煙突が並んでいる建物は厨房で所蔵品の展示室になっている。中ほど左よりの場所に塔(正義の塔)が見えるが、その左上がハレム。送迎門からまっすぐ進んだところにある平たい横長の建物はその奥の謁見の間の入口にあたる幸福の門。




(2008年3月) 杏(?)の花越しに謁見の間の入口である幸福の門を望む。




(2008年3月) 奥に見える塔は正義の塔。この下あたりにハレムの入口がある(人が並んでいる場所)。




(1994年7月) ハレムの皇帝の間。




(1994年7月) ハレムの皇帝の間。




(1994年7月) ハレムの皇帝の間。




(1994年7月) ハレムのアフメット3世の食堂(果物の間と呼ばれる)。




(1994年7月) ハレムのアフメット3世の食堂(果物の間と呼ばれる)。




(1994年7月) ハレム。皇子の間だと思う。




(1994年7月) ハレム。皇子の間だと思う。




(2013年3月) ハレムのアフメット一世の図書室だと思う。全体の写真は撮っていなかった。





(2013年3月) ハレム。




(2013年3月) ハレムだと思う。タイルのデザインが珍しかったので撮ったのだと思う(タイルの多くは草花やアラビア文字)。




(1994年7月) ハレムの愛妾のテラス(だと思う)。




(2004年8月)




(1994年7月) トプカプ宮殿のカフェからボスポラス海峡を望む(左奥)。




(2004年8月) トプカプ宮殿第4内庭から金角湾越しにガラタ塔を望む。




(2004年8月) 皇子たちの割礼の間(だと思う)。




(2008年3月) レワン・キョシュキュ(1635年に戦役でレワン=(現アルメニア共和国の首都エレバンを獲得した記念として建てた 小亭)だと思う。




(2008年3月) 奥の建物は厨房。




(2008年3月) 右の建物は厨房で東洋の陶磁器を展示している。




(2008年3月) 展示されている陶磁器は圧倒的に中国の物が多いが、上の物は説明のカード(写真にうつっている小さなもの)には、中央と右が伊万里、中央:1700-1740、右:1690-1730とある。左の皿のカードには右は産地の表記がなく(”日本”の表記はある)18世紀半ばとだけある。




(2008年3月) カードには19世紀・有田とある。江戸時代、有田焼は伊万里港から積み出されたので伊万里焼と呼ばれていたが、”arita"と表記しているということは明治期に入ってからのもの? この辺のことはまったく知らないのだけれど。




(1997年8月) 宮殿敷地内(写真の感じから推測するに、第2内庭の幸福の門の前と思われる)で演奏するオスマントルコの軍楽隊。この当時、週1回水曜日にトプカプ宮殿敷地での演奏があった。




(2008年3月) 猫と第1内庭。猫の多いトルコ、ここトプカプ宮殿の敷地内でもそこかしこで猫が見られた。しかし、観光客の姿がほとんど見られない。ここは無料エリアで見るべきものはないのだけれど、観光客でごった返している今ならば、有料エリアへ向かう人、出てきた人が沢山見られるはず。シーズンオフの3月だったこともあると思うが、まだ落ち着いて見学できる環境があったのだ。




(2013年3月) 皇帝の門からスルタン・アフメット・ジャミイ(ブルーモスク)を望む。