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バールベック 3月6日、ベイルートへ行くべく、セルビスステーションへ向かった。9時に着いたが、客は僕一人なのにも関わらず、なぜかすぐ出発。たぶん客の出迎えだろうと思っていると、やはり予約客のピックアップだった。 しかし、この予約客、家まで行ってもなかなか出てこない。まだ出発の準備をしているらしかった。しかし、ここはシリア、運転手も別に急ぐそぶりを見せない。 10時ころ、立派な家から大きな荷物を持った親子4人ずれ(だったか?)が出てきて、ようやく出発した。 レバノンとの国境は意外に近く、10時50分すぎにはシリア側のイミグレを通過、11時10分ころにはレバノン側のイミグレも通過。かつてビサすらなかなかとれず、一般観光客にはなかなか難しかったレバノン入国はあっけなく完了。 11時半ころ、小休止。どうやら同乗の客が昼食をとりたいらしい。まだちょっと早いのだが。何分くらい停車したかはメモがないのでわからないが、1時少し前にベイルート市内に入り、タクシーステーションみたいなところに行くのかと思っていると、くだんの「御家族さま」を目的地まで送り届けた。そして、そのあと、宿泊を予定していたホテルのそばまで運んでもらった。 ホテルの部屋を確保したあと、遅めの昼食をとりに外出したが、その後、急激に眠くなってきた。ということで、ホテルでだらだらとすごす。
ガイドブックを読んでいると、ベイルートまで出ずにバールベックに行くことができることがわかった。完全な予習不足である。バールベックで遺跡のすぐそばに泊りたかった。 夜はレバノン内戦時にも営業を休止しなかったという、レストラン東京という日本料理屋に行った。海外で日本料理屋があると、いったいどういう味の日本料理を出すのかという興味もあって、出かけることが多いのだが、けっこうご高齢のおばさんが経営されているここの味噌汁は、きちんとだしをとった本格的な味であった。 ところで、この店は前年のサッカーアジアカップがレバノンで行われたときに、日本チームの食事の世話をした店で、選手たちも試合の合間に食事に来たそうである。店のおばさんはすっかり選手たちを気に入ったようで、選手たちの様子について具体的に話してくれた。 3月7日、今日は今回の旅行をこの地域に決める最大の要素となった、バールベック行きの日である。 バールベックを見た後のことは、決めずに日本を出てきたが、シリアであちこちに行く時間を確保するため、バールベックを見たあとはなるべく早くレバノンを出ようということに決めた。 ただ、再びダマスカスに戻るのも芸がないので、バールベックからベカー高原の山道を越えて、トリポリに出て、そこから翌日シリアへ抜けようと考えた。山越えの交通機関があるかどうかは、もちろん未確認なので、出たとこ勝負である。 8時15分頃、コーラのセルビス乗り場に到着。 8時40分頃、バールベック行きのセルビスが出発。非常に順調だ。
10時40分頃、バールベックの街に到着。遺跡は街のすぐ横にあった。2時間もあれば、すべて見られそうな感じだ。ホテルに荷物を置いて、ゆっくりしたいという欲求に襲われそうになったが、ぐっとこらえてバックパックを背負ったまま観光した。
ベカー高原越えの交通機関はなかった。どうやらまだ雪があって不通ということらしかったが、夏場に公共の交通機関があるのかどうかは未確認。 しかたがないので、いったんベイルートに出てからトリポリに向かうことにした。明るいうちにトリポリに着きたいので、昼食は手持ちのビスケットで済まし、12時半頃出発。2時半にはベイルートのコーラに到着した。そこから、タクシーで北方面行きのバス乗り場へ移動して、2時40分頃、トリポリに向かうミニバスをつかまえ、4時すぎにはトリポリについた。 ここからシリアとの国境は近く、パルミラへの分岐点でもあり、クラック・デ・シュバリエという十字軍の城の観光の拠点でもあるホムスも近い。 ※トリポリの旧市街も狭い道が迷路のように入り組んでおり面白いらしい。しかし、この時の僕は、旧市街に隣接するタール広場でミニバスを降りたあと、なぜかミナ(漁港のある地域)に移動して、そこで宿泊した。漁港近くで魚料理が食べたかったのか? 当時のメモをみると、夕食は魚のフライを食べているが。。。 |


















