食中毒?

 (3月15日)
この日はカイロの中心、タハリール(ナイルヒルトンなどのある場所)から旧市街、イスラミックカイロに歩いて出た。

イスラミックカイロの北はアズハル地区といわれ(南はシタデル地区)、19世紀に新市街が作られるまでカイロの中心として栄えたところで、古い建物が多く残っている。また、ハーン・ハーリーというカイロ最大のバザールがあり土産物屋が集中している。午前中ということもあり、まだ閑散としているハーン・ハーリーを少しのぞいてから、町並をカメラにおさめながら歩いた。



フトゥーフ門。




アル・ハキーム・マスジット。































ズワイラ門。



イスラム地区の南にはシタデル(城塞)がある。一応、地図で自分の現在地を確認しながら歩いているつもりなのだが、道路が規則正しく走っているわけではないので、なかなかシタデルに着けなかった。タハリールを出てから2時間余り歩き通しだから、7~8キロは歩いているはずだ。

入り組んだ町並を抜けると、ようやくシタデルらしきものが見えてきた。城塞だけあって小高い丘にあるのだが、疲労気味の足にはわずかな登り坂もきつい。おまけに後ろか子供が着いてきて、道を案内しようとする。どうせまた、バクシーシでも要求するつもりなのだろう。彼らを振り切るため最後の力をふりしぼってスピードをあげる。

喉がカラカラになったので、城塞に入るとすぐに売店でミネラルウォーターを買った。売店のおじさんは、「1ポンド」と言うが、横にいたおじさんが「75ピアストル」と教えてくれた。まったく油断もすきもあったものじゃない。たった25ピアストルなのだけれど。

城塞からの眺めはなかなかのものだった。カイロの市内が一望に見渡せる。何を見るとはなしに市内の方を眺めていると、地元の高校生が話しかけてきた。どうやら学校をさぼっているらしい。その学生に教えられて初めて気がついたのだが、ギザのピラミッドがうっすらと見えるではないか。砂塵か排気ガスかはわからないが、かすんでいるので彼らに教えられなければ気がつくことはなかっただろう。



シタデル(わかりくいが城壁が見える)。




シタデルからカイロの街を望む。よーく見ると画面中央にピラミッドが見える。




シタデル(12世紀に十字軍の攻撃に備えてサラエッディンによって築かれた)にあるムハンマド・アリ・モスク(ドームを持つ建物)。モスクの右の方に背の低い塔がたっているが、それがはっきりわかるように撮ったのが次の写真。




現在パリのコンコルド広場にオベリスがたっているが、これはフランス政府が1831年にエジプト総督のムハンマド・アリと交渉して得たもので(1836年パリにたてられた)、それへの返礼として贈られたのが上の写真にある塔にはめこめられている時計。



シタデルの見物後、タクシーで新市街に出て昼食をとったが、まったく喉を通らない。

昼食後、コプト教というキリスト教の一派の教会があるオールドカイロへ行ったが、色々見てやろうという気力がまったくわかない。体調が変なのである。



コプト博物館。中に入って見学はしていないと思う(そういう元気はすでになかったと思う)。







セント・ジョージ教会。




カイロ地下鉄(地上を走る部分)と教会(今しがた見てきた教会?)。



5時ころホテルに戻ったが、全然空腹を感じない。そして、ついに昼に食べたものを戻してしまった。何が悪かったのかまったくわからない。

だんだんとあげるだけではおさまらなくなり、下からも出るようになってきた。腹痛もけっこうなものがある。幸い熱はないが、明日は朝早くアンマンに飛ぶことになっているので心配だ。下痢止めを飲むがさっぱり効き目がない(その後、下手に下痢をとめると毒素が抜けずかえって危険であるということを最近知った。この時の僕の対応はまずかったのかもしれない)。そして、腹の不調を増幅させるように、ホテルの下の通りから大騒ぎする連中の声が響いた。ラッパ・シンバル・アラビックな笛の音・そして奇声、皆腹にこたえた。たぶん、今日木曜は休日の前日だから、ああして騒いでいるのだろう。激しい腹痛に苦しみながらも、妙に冷静に分析していた。

脱水症状を放っておくことはできないので、湯を沸かし、お茶を入れ、ちびりちびりと飲んだ。しかし、それもほとんど体内にとどまることはなかった。やがて、空が白み、近くのモスクから大音響のアザーン(イスラム教徒たちに礼拝を促す呼びかけ)が流れた。一睡もできなかった。