ルクソール(1)

(3月8日)
起きるとすぐに散歩がてらホテル探しに出かけた。あるホテルの中をのぞきこむと、中で手招きをするので入って部屋の値段と設備を聞いた。すると、8ポンド(約480円)でトイレ・シャワー付き、朝食料込みというではないか。部屋を見るとまあまあだ。



1泊目のホテルの前。




ルクソール駅。




朝のルクソールの街を歩きながらホテル探しへ向かった。



朝食後、さっき見つけたホテルへ移り、ホテルの貸自転車ですぐに街に出た。

まず、ナイルの東岸のカルナック神殿へ向かうことにした。

ルクソールは、かつてテーベといい、紀元前16世紀から紀元前11世紀くらいまで続いた新王国の首都として栄えた街である。中王国時代を築いた王朝がテーベから興ったこともあり、この新王国時代には、元来テーベの地方神であったアモン神が全エジプトの主神とされ、これが太陽神信仰の聖都ヘリオポリスの最高主神ラーと習合して、神々の王アモン・ラーとよばれるようになって、その信仰が盛んとなった。と色々述べたが、早い話、エジプトでは多数の神々が信仰されたが、新王国の時代には、アモン・ラー信仰が中心となったということである。そして、国家の最高神であるアモン・ラーに捧げるため巨大なアモン神殿が建設され、これを中心とする神殿がカルナック神殿なのである。

カルナック神殿では、まず参道で、頭が羊、体がライオンという姿のスフィンクスに迎えられる。そして、第一塔門を通りラムセス2世の中庭とよばれる第一中庭をすぎ、さらに第二塔門を入ると、そこは134本もの柱が16列に並ぶ大列柱室で、これには圧倒される。



カルナック神殿の参道。両脇に頭が羊、体がライオンというスフィンクスが並ぶ。




第一中庭(ラムセス2世の中庭)




ラムセス2世の中庭にあるラムセス2世像。




大列柱室。柱が太い。




大列柱室。




大列柱室を出て振り返る。










スカラベの像。スカラベは古代エジプトにおいて再生・創造の象徴とされた。その糞を運ぶ様子を太陽の運行になぞらえて太陽神とも結びつけて考えられるようになり神聖視された。












午後はナイルの西岸へ行った。

小さなフェリーが東岸と西岸とを結んでおり、自転車もフェリーで渡る。自転車を押してフェリーに乗り込むと、10才位の少年が、そこあいているよという感じで、自転車と僕のスペースになりそうな場所を教えてくれた。「ショクラン(ありがとう)」といって、そこに自転車を持っていくと、彼は「50ピアストル(100ピアストルが1ポンド)」といってきた。どうやら、自転車の置き場を教えた礼をよこせといっているらしい。こんな小さな子供まで金に執着しているとは、とあきれながらも無視していると、その少年はしつこく金をせがんでくる。まわりのエジプト人の大人たちもみかねて、その少年に何かいって注意を与えてくれたので彼もだまったが、船を降りるまでうらめしそうに僕の方を見ていた。



ナイル東岸と西岸を結ぶフェリー。現在はどんな船が運航されているのだろうか。



西岸の観光方法は少し変わっていた。ナイルを渡って少し行ったところに入場券売り場があって、そこで、これから行く各遺跡の入場券をまとめて買うという仕組みになっていのである。あと半日でどの程度回れるか、判断の難しいところだが、ガイドブックにのっている西岸の観光ポイントの半分位を適当に言って入場券を買う。

まず、ツタンカーメンの墓で有名な王家に谷へ自転車を走らせた。新王国時代の王たちは、それまでのピラミッド形式の墓の造営をやめ、谷あいの岩壁に穴を掘って、そこを墓所とした。王たちの墓が営まれた、この谷が王家の谷である。

3月とはいえ、ナイル中流域の日中の気温はかなり高く、何より陽射しが強烈である。おまけに王家の谷へ向かう道の最後には、かなりの登り坂があり、自転車で来たことを後悔した。それでも、むきになってペダルを踏み続けた。やっとのことで着いた王家の谷は当たり前のことだが、ぱっと見には何もなく、多くの観光客があっちの岩窟からこっちの岩窟へと移動していた。

各墳墓とも内部の壁画やヒエログリフ(象形文字)がなかなか美しいのだが、個人旅行の悲しさ、ガイドがいないので何を意味しているかわからない。何か不思議な雰囲気に浸るだけである。

有名なツタンカーメンの墓は他のものに比べて小さく、墓そのものとしてはそれほど見るべきものはない。それはこの王が年少の王で、権力もそれほどではなかったからだそうだが、盗掘を免れた副葬品はものすごいもので、古代エジプトの王の経済力を語る際によく引き合いに出される(この墓の副葬品はカイロの考古学博物館で展示されている→2025年11月からギザの大エジプト博物館で展示されいるらしい)。



王家の谷。




ツタンカーメンの墓。



王家の谷を後にした僕は、ハトシェプスト女王葬祭殿へ向かった。新王国初期の墓所は葬祭殿を兼ねていたということだが、やがて別々に営まれるようになり、その最も代表的なものが、このハトシェプスト女王葬祭殿である。しかし、観光客はそれほど多くはなく静けさが漂っていた。どうも行った時間が悪かったようで、午後になると葬祭殿が背後の丘の陰になってしまい暗くなってしまうのだ。観光客の多くは午前中にやって来るようだ。



王家の谷からハトシェプスト女王葬祭殿へ向かう途中に撮った1枚。




王家の谷からハトシェプスト女王葬祭殿へ向かう途中、振り返って1枚。道標に”VALLEY OF KINGS"の文字が見える。




ハトシェプスト女王葬祭殿。




ハトシェプスト女王葬祭殿。彩色の残っている壁画があった(供え物の前に座るアメン神)。




ハトシェプスト女王葬祭殿。



夕暮れ近くまで西岸を自転車で走り、くたくたになった。そして、露出していた肌が非常に痛い。腕は真っ赤で半ば火傷状態。鼻や頬もかなり焼けたようだった。